「庄内は天恵の沃野、正に之を以って国を立つべき楽土なり」
これは1622年に庄内藩に入部した酒井忠勝公の言葉です。
古来より続く穀倉地帯として名だたる場所であり、
酒田はすでに大阪や京都などと海路でつながっていて、
商人たちが長い時間をかけてつくり上げた高度な自治を実現した自由都市として発展していました。
商業と農業がこれほど豊かである地域は当時の東日本では見られず、忠勝公にとっては大変魅力的な場所だったに違いありません。
忠勝公はその完成された酒田の町をいかす配慮から
鶴岡の鶴ヶ岡城を居城に決め、これにより城下町の鶴岡と
湊商人の町酒田という2つの特徴を有する藩が形成されました。
その豊かな楽土として最も貢献したのが日本一の大地主といわれた豪商、酒田の本間家です。
とくに三代目本間光丘は、風砂の害を防ぐための防砂林事業を失業対策と供に行い、高利貸しからの多額の負債のある者の肩代わりをして破格の低金利で貸し付け大名や農民を救い、庄内藩、米沢藩の財政再建も行うなど公益の祖と形容されている人物です。
強欲な地主や藩主と家臣たちに食いつぶされてしまい貧困にあえぐ民にあふれた地域が東北では多かった中、豊かな大地と商業圏、そして素晴らしい人材という稀有な条件が揃ったこの庄内はより多くの富を生み出し、豊かな産業と文化がはぐくまれてゆきました。
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